反復による異化 太宰治『ダス・ゲマイネ』について

 「異化=知覚の自動化をさけるための文学の手法」。太宰治の『ダス・ゲマイネ』は「異化」効果を表現した小説である。本記事はそれを「反復」という観点から論じた試論である。小難しい用語はきっかけにすぎない、『ダス・ゲマイネ』を読めば「異化」とは何かが感じられるはずである。

剽窃と反復

 『ダス・ゲマイネ』のテーマは剽窃である。第2章で主人公含む四人の芸術家によって異国に轟くような雑誌の計画が始まる。その雑誌のタイトルは『海賊(Pirate)』。フランス語のPirateは海賊以外にも著作物の剽窃者という意味合いがあることを主人公は指摘するが、雑誌を主宰する馬場は「いよいよ面白い」と言う。「剽窃」は他者の文章や作品を自分のものであるかのように扱うことを指すが、その行為の本質は「反復」にあると私は考える。他者のオリジナルを繰り返した時、それは剽窃・贋作・偽物といった言葉で表現される。本記事の重要な点は、佐野と馬場の二人に表れる剽窃という行為、その向きの対比を明らかにすることである。

剽窃者-馬場

 馬場は雑誌「海賊」の発起人であり、音楽学校に8年在籍している学生である。『海賊』では音楽を担当するようで、交響曲を発表しラヴェルを狼狽させてやろうと考えている。馬場の第一印象を主人公の佐野次郎は「シューベルトに化け損ねた狐」と扱き下ろす。馬場とのエピソードも剽窃や贋作のイメージで溢れている。シゲティのルフラン附きの文章のエピソードや荒城の月を作曲したのが実は馬場であったというエピソードはいずれも信じがたい。そんな馬場に関する疑念は佐野次郎にも湧き上がる。

 疑いだすと果しがないけれども、いったい、彼にはどのような音楽理論があるのか、ヴァイオリニストとしてどれくらいの腕前があるのか、作曲家としてはどんなものか、そんなことさえ私には一切わかって居らぬのだ。馬場はときたま、てかてか黒く光るヴァイオリンケエスを左腕にかかえて持って歩いていることがあるけれども、ケエスの中にはつねに一物もはいっていないのである。彼の言葉に依れば、彼のケエスそれ自体が現代のサンボルだ、中はうそ寒くからっぽであるというんだが、そんなときには私は、この男はいったいヴァイオリンを一度でも手にしたことがあるのだろうかという変な疑いをさえ抱くのである。そんな案配であるから、彼の天才を信じるも信じないも、彼の技倆を計るよすがさえない有様で、私が彼にひきつけられたわけは、他にあるのにちがいない。

太宰治『ダス・ゲマイネ』

 馬場という登場人物が醸し出す悲哀がこの小説の基盤となっている。自身の空っぽさ、凡庸さを自覚しながらも、雑誌の夢想や嘘のエピソードで飾り立てずにはいられない偽芸術家の悲しみは、芸術に魅せられ一度でも試みたことのある人間であれば想像に難くない想いであろう。剽窃者である彼の行う反復は後ろ向きである。外見はシューベルト風ではあるが、シューベルトではない化け損ないの狐。音楽家としても空っぽのヴァイオリンケースが象徴するように、作品が「荒城の月」という嘘。結局、雑誌「海賊」も失敗に終わる。馬場は他者を剽窃という行為で繰り返すのみで、一度も自身の音楽を作ることがない。あらためて言うが、馬場の行う剽窃という反復は後ろ向きに描かれているのである。

剽窃者-佐野

 主人公の佐野には2種類の剽窃のモチーフが潜んでいる。一つは佐野の恋、二つ目は他者の言葉の反復である。この二つのモチーフはいずれも作中でくどいほど繰り返される重要なポイント、この作品のカタストロフへの伏線となるのである。

佐野の恋

 私が講義のあいまあいまに大学の裏門から公園へぶらぶら歩いて出ていって、その甘酒屋にちょいちょい立ち寄ったわけは、その店に十七歳の、菊という小柄で利発そうな、眼のすずしい女の子がいて、それの様が私の恋の相手によくよく似ていたからであった。私の恋の相手というのは逢うのに少しばかり金のかかるたちの女であったから、私は金のないときには、その甘酒屋の縁台に腰をおろし、一杯の甘酒をゆるゆると啜り乍らその菊という女の子を私の恋の相手の代理として眺めて我慢していたものであった。

太宰治『ダス・ゲマイネ』

 これは冒頭からの引用であるが、甘酒屋の菊は佐野の恋の相手ではなく、菊はあくまで恋の相手の「代理」であることが述べられる。佐野は恋の相手すら剽窃という行為で反復する。この時点での佐野にとっての菊は金がない時にオリジナルの恋の相手を「我慢して」反復するための存在でしかないのである。

 路地へはいり路地を抜け路地を曲り路地へ行きついてから私は立ちどまり馬場の横腹をそっと小突いて、僕はこの女のひとを好きなのです。ええ、よっぽどまえからと囁いた。私の恋の相手はまばたきもせず小さい下唇だけをきゅっと左へうごかして見せた。馬場も立ちどまり、両腕をだらりとさげたまま首を前へ突きだして、私の女をつくづくと凝視しはじめたのである。やがて、振りかえりざま、叫ぶようにして言った。「やあ、似ている。似ている」はっとはじめて気づいた。「いいえ、菊ちゃんにはかないません」私は固くなって、へんな応えかたをした。ひどくりきんでいたのである。

太宰治『ダス・ゲマイネ』

「僕は」私はぶちまけてしまおうと思った。「誰もみんなきらいです。菊ちゃんだけを好きなんだ。川のむこうにいた女よりさきに菊ちゃんを見て知っていたような気もするのです」

太宰治『ダス・ゲマイネ』

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